北杜市武川町に並ぶ「日通ファーム」の大きなビニールハウスの中では、パクチー、ほうれん草、
春菊などの葉物野菜が、南アルプスの地下水を使った水耕栽培で大規模に生産されている。生
産や出荷準備をするスタッフの多くは、周辺地域に住む人々だ。
日通ファームは日本通運の新規事業の立ち上げで設立された子会社であり、代表の諸井奈美さ
んは、この新規事業の企画に関わった後、立ち上げメンバーとして東京から北杜に出向してき
た。農業経験0からのスタートだったが、諸井さんは地域や農業に深く関わることで、日々さまざ
まなことを感じている。
物流企業が北杜で農業を始めた理由や目指す姿、農業の課題について思うことなど、さまざまな
お話を諸井さんに伺った。
流通形態の変化
新たな供給と雇用と産む農業
社会の変化に伴って、いま物流の世界にも少しずつ変化が起きてきている。従来、農作物は地
方のJAから卸売市場に運ばれるケースが一般的だったが、最近は直接取引で小売店へ直送す
る農家さんなども増えてきていて、流通形態が変わってきている。
そのような環境の変化を踏まえた上で、この日通ファームは日本通運の新規事業として設立され
た。
「日本通運は全国に支店があって、昔から農産物の輸送を請け負ってきたエリアも多いのです
が、最近は農産物の流通形態が変わってきて、今までのやり方だけでは仕事が減っていくかもし
れないという問題意識を会社全体で感じていたんです。そこで自分たちで農業のふところに入り
込んでみようという話になり、ファームをつくるという新規事業が立ち上がりました。雇用の受け皿
としての農業、という視点もあり、パイロット事業としての農場設置を企画しました。」
落ち着いた口調でそう説明する諸井さんは、日通ファームの新規立ち上げメンバー3人の内の1
人だ。元々は日本通運の社員として航空便での輸入を主に担当していた諸井さんは、このファー
ムの立ち上げ担当となり北杜市に出向してきた。その時点での諸井さんの農業に関する知識は
0に等しかった。
「異業種からの参入ということで、農業に関する知識がなくてもスタートできるようなマニュアルが
あり、栽培技術のサポートが受けられること、栽培に失敗した時のリスクが低いことなどを要件と
して企画を進めました。」
綺麗な水と長い日照時間
北杜市が舞台に選ばれた理由
悩む間もなく、諸井さんはどこで何をつくればおいしい野菜がつくれて採算が取れるようになるの
かということを考えるために情報収集を開始した。
栽培プラントのメーカーに何社かアプローチして話を聞きながら水耕栽培の方法を教えてもらい、
方向性が固まってきたら実際に生産者のところで研修をさせてもらった。
また立ち上げる前にある程度の販路をつくっておくために何社かのバイヤーに相談をし、その中
で「パクチーだったら仕入れますがいかがですか」という提案を受け、パクチーをメインに栽培す
ることが決まった。
あとはどこでつくるのかという部分で全国のさまざまな地域を検討し、最終的に選ばれたのが北
杜市だった。
「北杜市は企業の誘致に積極的でさまざまな実績もあったので安心感がありました。また、水耕
栽培なので水が綺麗だというところも大きなポイントでした。ハウス栽培は外の温度や日照時間
に影響を受けるので、晴れている日が多くて日照時間が長いというのもよかったし、夏場は涼しく
て雪もほとんど積もらず、都内へのアクセスも良い。いろいろな条件が北杜市には揃っていたん
です。」
北杜市にハウスを建てることが決定し、実際に動き出す際には近隣の住民への挨拶まわりや説
明会を実施。また、積極的に地元の人を雇用し、地域への貢献も目指した。
「地域に根差さないとできない事業なので、心配やご迷惑をかけないようにということは常に考え
ています。全部で在籍70名くらいのスタッフがいるんですけど、パートさんとして来てくれているの
は地元の方が多いですね。みなさん農業の経験があるというわけではなくて、定年退職された方
がその後の働き先としてうちを選んでくれていたり。地元のパートさんには地域のイベントに誘っ
てもらったりして、おかげさまで少しすつ地域の方との関係づくりもできてきているのかなと思いま
す。」
諸井さんは地域の草刈りやお祭りにも参加し、地元の人と積極的にコミュニケーションをとるよう
にしている。標高600mに位置する武川町は北杜市の他のエリアと比べてお店なども少なく、小さ
なエリアでその分地域の結束力も強い。
土地、水、空気などの地域の資源を利用して事業を行っていく上で、地域の理解を深め自分たち
も地域に貢献していくという姿勢を持つことは大切なのだろう。
日通ファームと農業のこれから
日通ファームでは、年間200tほどの野菜を出荷している。出荷先は都内が主だが、県内ではオ
ギノにパクチー、春菊、ほうれん草の3品目を卸している。
DESIGN×SALADAというブランド名がつけられた葉物野菜の数々は、オシャレなサラダを自宅で
手軽につくるのにぴったりな野菜をパッケージした商品だ。
実際に農業をやってみて、諸井さんは農業という仕事のやりがいや重要性を知るのと同時に、さ
まざまな課題も実感してきた。
「農業は植物が相手なので思ったようにできない場合も多いし、天候によって収穫量が変わるこ
とも多いですよね。うちでたくさん獲れるときは他のところでもたくさん獲れるので、販売値を決め
るのがむずかしいなといつも思います。受注量と出荷量の差異をどうやってなくしていくかという
のはずっと考え続けている課題です。あとは農家というより経営者として、どうすればみなさんに
気持ちよく働いていただけるかということも常に考えていますね。」
日本通運の社員という立場から日通ファームの代表となった諸井さんには、経営者としての目線
が要求される。生産・販売・そして従業員の働く環境の管理まで、全てのことに気を配りながら、
諸井さんはさらに農業の課題に目を向け、次の事業についても考えを巡らせる。
「日本通運の事業としてはまだまだ小規模ですが、3年半ほどやってやっと黒字の目処がついた
ので、ここからどう展開していくのかを今ちょうど考えているところです。まだどういう形になるかは
全くわかりませんが、生産者や地域に貢献できるものがいいなと思っています。農業って食べ物
をつくる仕事なので、絶対にないといけない仕事ですよね。だからもっと、農家さんが儲かるよう
になったらいいなと思うんです。もう少し売価が上がってくれないと厳しいなぁと思っていて、その
ために何ができるかをこれから考えていきたいです。このフードバレーの取り組みの中でも、みん
なで協力して何かできたらいいですよね。北杜市はエリアも広いし色々な農業をしている方がい
るのでまとめるのはむずかしいと思うんですけど、その中でも共通課題である物流、資材の仕入
れ、販売、人のやりくりあたりで何かできればいいんだろうなと思います。」
実際に農作物をつくってみたからこそ、野菜には今ついている価格以上の価値があることを諸井
さんは感じている。その価値をどう市場で高めていくのかは、日通ファームに限らず多くの農家の
課題である。物流や販売などに関しても、北杜市エリアとして力を合わせてできることが何かある
のかもしれない。
「農作物をつくる上でコストの削減には多分限界があると思っていて。機械化して人件費を減らし
たり効率化したりすることはできるだろうけど、そもそもの野菜を育てるのに必要な工程はカット
するわけにいかないですよね。なのでどこに価値をつけてお客様にしっかり理解して買っていた
だくかというところをもっと考えていく必要があると思っています。お客さんが何を求めているのか
常にアンテナを張って、新しいものをつくったり商品開発を繰り返していかないといけないです
ね。今の時代に対応するために、地域で協力して新しい仕組みをつくっていくことも必要なのかも
しれませんね。」
諸井さんが言うように生産者側の商品づくりや見せ方の工夫も大切だが、消費者側が生産の過
程を知ろうとすることも大切なことだ。これらの課題解決策は一人が考えるのではなく、地域や社
会全体で考えていく必要がある。
標高600m、爽やかな風が吹き抜ける武川町に並ぶこのビニールハウスの中では、これからもさ
まざまな挑戦が行われていく。