一目惚れした大自然の中で、美味しい野菜作りを追求 する        Chiharu farm 田中千春さん

八ヶ岳と甲斐駒ヶ岳が一望できる北杜市高根町のChiharu farmの畑では、ほうれん草や小松菜やケールなどの野菜が、降り注ぐ陽射しとたっぷりの風を受けてぐんぐんと育っている。

「北杜から見える山の美しさに惚れ込んで移住してきたんです」とにこやかに出迎えてくれたのは、Chiharu farmのオーナー田中千春さんだ。

埼玉県出身の田中さんは東京で7年間勤めていた証券会社を退職し、4年前に山梨県に来て農業に携わり始めた。現在は一人で約1.4haの畑を管理し、農薬・化学肥料を使わずにさまざまな野菜を栽培している。

「農業の奥の深さが楽しくてしかたない」と語る田中さんにとって、この北杜市は「素晴らしい環境」なのだと言う。

 

「知らない世界を見てみたい」
好奇心の赴くままに進み農業の世界へ飛び込む

 

田中さんは子供の頃に手にした一冊のケーキのレシピ本をきっかけに「食」に興味を持ち、学生時代は食に関する企業への就職を目指していた。巡り巡って金融機関に就職することとなったが、その後も食への興味は尽きることなく、金融会社を退職して専門学校に通いながらホテルでお菓子をつくるパティシエの仕事をしたり、ベランダで野菜を育てたりしていた。その後再び、証券会社という食とは離れた職場で7年間働いたが、スーパーで野菜を手にしたときにふと、「そういえば農業の現場って全然知らないな」と感じ、そこから農業について勉強を始めたところどんどんとのめりこんでいき、2017年に韮崎市に移住。9か月職業訓練を受けた後、2018年に住まいを北杜市に移し、自分の農園を始めた。

「昔から好奇心が旺盛で『知らない世界を見てみたい』という思いが人一倍強かったんですよね。齢を重ねるにつれ未知なる世界に触れる機会は減ってきて、また仕事も天井にぶつかり次のステージを模索していました。仕事は仕事と割り切り、プライベートを充実させようと習い事をたくさんしてみたりしたんですけど、やっぱり満たされなくて。社会に貢献したい、人の役に立ちたいというエネルギーが有り余っていたんです。笑」

田中さんはまず有機農業で有名な埼玉県の小川町で5日間の農業インターンシップに参加。そこで理想図として掲げていた『循環型農業』の仕組みに触れ、「そんなことができるんだ!」と有機農業の世界に興味を持っていった。その後も様々な研修に参加し、彼女の中で「本格的に農業をやりたい」という想いが徐々に強くなっていった。

「東京ってすごく便利で洗練されているけれど分業化が進んでいて、社会は進歩しているけど動物としての自分の生きる力、知恵はすごく乏しいなと。東日本大震災で物流が止まってスーパーの棚から物がなくなったのを見たときに、このままで良いのかという漠然とした非常に大きな危機感を持ちました。そんな風にいろいろ重なって、本格的に農業をやってみようかなと思うようになりました。」

田中さんが農業を通して生きる力を付けていく舞台として選んだのは北杜市だった。
「北杜市で地域おこし協力隊をしていた友人にイベントに誘われて初めて北杜市を訪れたときに、この大自然に魅了されてしまったんです。天気がいい日で空も八ヶ岳も最高にきれいで。それまでに旅行などでいろいろな地域に行きましたけど、北杜に来たら『ここだな』って感じてしまって。一目惚れという感じでしたね。」

とは言え、農業で食べていけるようになる方法など、当時は全く検討もつかない状態だった。

「具体的な計画もないし当然家族には反対されるしで、当時は本当に迷いました。でも友人から『ワクワクする方を選んだらいいんじゃない?』というアドバイスを受けて、すっと心が決まったんです。長坂町にある農業大学校で9ヶ月間の職業訓練コースに通い、本格的に農業の勉強を始めました。多品目有機農業をされている畑山農場さんで実習させて頂き、栽培・経営・地域のこと・人脈などたくさんのことを学ばせてもらいました。」

農業大学校のプログラムを終え、いきなり一人で畑ができるとは思っていなかった田中さんは、2~3年は就職という形で経験を積みたいと考えていた。しかし実際に就職先を探してみると有機農家の正社員募集はほとんどなく、“半農半X”で自分で農場を始める冒険をしつつも生計を確実に立てられる仕事を同時に持つ道を探し始める。しかし本気で農業に没頭するにはその両立は難しいと悟り、「せっかく思い切って飛び込んできたんだから、とことんやってみよう」と覚悟を決め、営農を開始した。

 

「農業は奥が深すぎて興味が尽きない」
実験を繰り返し良質な土壌をつくっていく

 

田中さんが職業訓練を受ける前年に通っていたのは「桃の週末農業塾」。農業への関心は野菜の栽培から始まったものの、「山梨に来るのに果樹を見ないのは野暮だと(笑)」。桃栽培に魅了され桃か野菜でまた本当に悩んだが、「北杜市に住みたい」という強い想いがあり、北杜市の気候に適する作物は野菜だった。

さらに田中さんには、何度もトライ&エラーを繰り返すことで栽培や植物への理解を深め、美味しくて健康な作物を届けていきたいという想いがあった。果樹よりも短いスパンでいろいろなことを試せる野菜の方が自分には向いているのかも知れないと考えるようになり、農薬・化学肥料を使わずに野菜を栽培することに決める。

「一番自分なりのやり方が出るのは肥料だと思います。野菜に何のご飯を食べせるのかという部分。有機質資材は肥効のスピードであるとか、その他の要素とあいまって発現の仕方が変わってくるようなので資材の選び方や施肥量を決めるのが難しいです。作物の成長過程で、必要なときに必要なものを無駄なく投じていくにはどうしたらいいのか、日々勉強しています。健康な野菜が育てば、病気にもなりにくくなるし栄養価も高くなります。今は、肉系、魚系、昆布系、植物系など、原材料の違いで食味がどう変わってくるかに注目しています。」

2005年に農林水産省が発表した農業センサスデータによると、日本の農業の農法の内、有機農業が占める割合は0.2%だ。現在は0.5%程度まで増えてきたと言われているが、その割合はまだまだ少ない。一般的に有機農業は大変だと思われているが、田中さんは本当に楽しそうに、自分の農業への想いを語る。

「防虫ネットを必ずかけるなどの手間はありますが、慣行農法でも万能な薬なんておそらく無くて、どんな栽培方法であろうと一番大事なのは植物の生体を良く知ることだと思っています。植物の成長や栄養の吸収に大事なのは、とにかく土壌微生物なんですよね。1gの土の中に5億以上の微生物がいると言われているんですけど、良い微生物にいっぱい活躍してもらえる土壌環境を作りたいなと思っていて。農薬を使ってしまうと生態系が変わってしまうので、私は農薬は使わないことにしています。」

研究熱心な田中さんは自分の野菜の栄養価を科学的に分析してみたいと思い、一般社団法人日本有機農業普及協会主催の栄養価コンテストに自分の野菜を出品してみた。硝酸イオン、糖度、ビタミンC、抗酸化力、食味を計測してくれるこのコンテストで、田中さんの作ったほうれん草と小松菜はなんと最優秀賞を受賞した。ケールも受賞はしなかったものの数値的に良い結果が出た。その後も研究のため条件を変えて出品し続けたところ、三年連続でほうれん草が最優秀賞を受賞したというから驚きだ。

「北杜って本当においしい野菜ができるんだなって感動しました。日照時間が長くて寒暖差が大きいという天候要因もあるだろうし、畑を元々管理していた方がいい土壌をつくってくれていたこともあるかもしれないし、さまざまな要因があると思います。まだ偶然の域を出ていないので、一個ずつ思い当たることを掘り下げて、狙って良いものを作っていけるようにしていきたいです。」

田中さんは人がおいしいものを食べているときに見せる幸せそうな表情を見るのが大好きなのだという。そんな彼女が北杜の良質な環境の中で手間を惜しまず愛情を込めてつくる野菜がおいしいのには頷ける。

 

「一人でやっているけど一人じゃない」
今の環境は素晴らしいと思える環境

 

農業を楽しんでいるとは言え、1.4ha(サッカーコート約1.5倍)の畑を女性一人で管理するのは簡単なことではない。栽培に加えて経営、物流、機械設備や雇用など、考えるべきことややるべきことは尽きない。

しかし田中さんは「一人でやっているという感じがしないんです」と、北杜に来て感じていることを語ってくれた。

「一人だったら、機械の目利き、ビニールハウスの手当て、どんな資材があるのか、どんな販路があるのか、途方に暮れていた。でも周りの先輩方や近所の皆さんが惜しみなく情報を提供してくださり、技術的にも精神的にもいつも気にかけてくださるのでやれていると感じます。フードバレーでは運営委員の方々が自分の利益のためではなく、地域の盛り上がりを想って力を割いてくれているので本当に尊敬しています。最近は勉強会や商談会、情報発信などを次々に打ち出してくれて、今後がますます楽しみです。ここは人がいい意味で干渉してくれるんですよね。近所の方が『頑張ってるね』と様子を気にしてくれたり、必要としている物や人をつなげてくれたり、今はそういう繋がりがすごくあったかいなと感じています。色々な決断がとても勇気のいることでしたが、素晴らしい環境の中で力の限りに全力投球できる日々が本当に幸せです。」

北杜で農業を始めて3年、田中さんには多くの仲間や応援者ができた。田中さんは、野菜をつくる工程も決して一人ではないのだという話をしてくれた。

「種苗メーカー、肥料メーカー、生産者、物流、仲卸、小売店、料理人、消費者…、作物が生まれるところから食べ手の口に入るまで、大きな1つの輪でつながっているのをすごく実感しています。最終ゴールは『おいしいものをつくりたい、届けたい、食べたい』という共通したところにあって、それぞれが自分のポジションを全力でまっとうするオーケストラみたいな感じ。自分は生産ですが、他のポジションの方々のプロフェッショナルな思いや仕事に触れた時は本当にしびれます。一つの野菜に紐付く、様々な立場の方たちとの繋がりをもっともっと濃くしていきたいなと思っています。連携プレーがうまくまわったとき、すごくいい世界ができるなって思うんですよね。」

田中さんが語る言葉には、前向きなエネルギーが満ちている。
これからも彼女はおいしいもので人を笑顔にしていくオーケストラの一員として、多くの出逢いや発見を繰り返しながら、他者と共鳴していくのだろう。

 

「農業の楽しさを伝えたい」
自然の中で感じる小さな喜びの数々

 

田中さんはいずれChiharu farmが農業に興味のある人たちだけでなく、様々な方のステップの場になれたらと考えている。

「今はまだ自分のやり方が定まっていないので人を入れることはできないのですが、いずれは農業という、五感に訴えかけるものが非常に多い異世界を経験してもらえる場所にしていきたいなって思うんです。都会で生まれ育つとなかなか農家になるなんて選択肢に入ってこないですよね。でもこういう暮らしがあるんだよってことを、もっと多くの人に伝えていきたい。」

蒔いた種が一斉に芽を出してぐんぐんと成長していく様子や、ふと見上げるとそこにある美しい山々などの自然が、田中さんの日々のエネルギーの源だ。

「小さい喜びを感じることがすごく多くて幸せ。」とにっこり笑う田中さんはこれからも、農業がもたらしてくれる豊かさを思いっきり享受して、それを他者へと繋げていくのだろう。